|
2004年(平成16年)5月15日
(故)村上周平 日本エゴマの会会長 |
||
|
近代日本国家の興亡は、明治以来136年間に二度の亡国に見舞われました。その一つ目は軍事大国日本の亡国です。明治政府は富国強兵の政治を行いました。明治5年に徴兵令を発令し国民皆兵の国をつくり、アメリカ、イギリスに次ぐ世界三大軍事大国になりました。 明治27−8年の日清戦争で中国に勝利し台湾の領土を得ました。明治37−8年の日露戦争ではロシアに勝利して樺太(サハリン)を得ました。明治43年には無理やり朝鮮を合併しました。(以来36年間日本の武断政治は朝鮮・韓国の人々に多くの死の苦しみを与えました。そのうらみは60年後の今も消えていません。) 大正3年、第一次世界大戦でドイツより南洋諸島を得ました。昭和5年、中国より満州を独立させて日本の属国とし、昭和12年シナ事変を起こして中国大陸に大軍を送り、奥地の黄河・蘭州や長江・重慶まで爆弾の雨を降らせました。そしてついに昭和16年(1941年)12月8日ハワイの真珠湾に360機の魚雷攻撃で奇襲し、大東亜共栄圏確立という名目で太平洋戦争を一億国民総動員で戦いました。しかし、刀折れ矢つきて、1945年(昭和20年)8月15日に無条件降伏しました。 広島、長崎に人類初の原子爆弾を落とされ、全国都市の80%を焼夷弾で焼かれました。ここ中山・女房内の紺野儀平氏所有の水田にも爆弾が落とされました。大きな穴が二つあき、復員後の私はこの水田を父、儀平や兄の健一とみんなでモッコを担いで穴を埋めました。あの時の爆弾の破片で足を切ったのを覚えています。 当時は地下足袋も長靴もなく、皆裸足で田畑の仕事をしました。普段は草履を履いて野山を歩いていました。これは1946年(昭和21年)5月の田作りの時のことでした。 |
敗戦によって日本は元の北海道、本州、四国、九州の島国にもどり、かつての世界三大軍事大国日本は完全に亡んだのであります。この間わずか76年です。剣によって栄えた日本は剣によって亡びました。 「戦(いくさ)四・五・六(しごろ)」つまり昭和4・5・6年ごろは軍人でなければ人でないような軍国時代でしたが、わずか15年後に500万人の同胞・親子・兄弟を失い、原子爆弾を浴びせられ亡ぶことを誰が予想したでしょうか?(内村鑑三や藤井武は敗戦の20年前に日本がアメリカと戦争して敗れると預言していました。藤井武著「聖書より見たる日本」参照。) この戦争に私は航空魚雷整備兵として九州・鹿屋航空基地で特攻隊の戦闘機に魚雷を搭載中、アメリカのグラマン戦闘機に襲われました。この戦争で同級生の渡辺一君(下馬沢)も渡辺勇君も戦死しました。 遠中山の斉藤ナツヨさんの夫、重夫さんが沖縄で戦死しました。「夫の戦死が悲しくて泣きました。父を知らない赤ん坊の重平を抱いて泣きました。しかし今では涙も枯れてしまいました。」とナツヨさんは同級会で語ってくれました。緑小学校(旧移小学校)わきの慰霊碑に167柱の戦没者が刻まれています。あの大東亜戦争で人口わずか五千人の旧移村で167人が戦場で尊い命を失ったのです。 一発の原子爆弾は日本の頭上に炸裂し閃光一瞬、広島、長崎は跡形もなく消え去り、罪なき数十万の市民はしかばねの山となりました。空をおおい水をふさぎいでくる戦闘機と戦闘艦の攻撃により、大東京、大阪、名古屋をもって代表する都市の壊滅は80%におよび数百万の命を代償として「七〇年の辛苦は一日にして消え、二千年の栄光は一夜にして崩れ、空に光りなく、民に生気なし。剣によりて建てしものは、剣によりて奪われ」祖国はここに亡び去ったのです。(矢内原忠雄「哀歌」参照) |
|